さだまさしの祖父・繁治(しげじ)と父・雅人はスパイだった!ファミリーヒストリー 再放送や見逃し動画配信は?8月20日

9月 17, 2018

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「事実は小説より奇なり」とは良く言ったものでミュージシャンの「さだまさし」さんの祖父・佐田繁治(しげじ)さんが、中国大陸から極東ウラジオストックまで股に掛ける諜報員(スパイ)だった事は度々さだまさしさんから語られていましたが真相はハッキリしませんでした。

しかし今回NHKの著名人のルーツを探る番組「ファミリーヒストリー」(2018年8月20日放送・再放送日未定)では、「さだまさし~スパイだった祖父 大陸の奥地へ~」
と題し、調査した所、父親雅人さんも日本陸軍のスパイだった事実が判明!

そして佐田繁治さんの奥さんエムとの出会いはまるで映画の様なロマンスだった事も判明し、さだまさしさんの音楽のルーツが尺八にあった!事も判明しました。

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諜報員(スパイ)だった祖父・繁治(しげじ)

ミュージシャンの「さだまさし」さんの叔父・佐田繁治(しげじ)さんは、日清戦争時に日本陸軍・第五師団歩兵第二一連隊第二中隊第三版舎に二年所属し、除隊後、明治三二年、当時日本の統治下にあった台湾の台中県で警察官となり巡査とし四年間勤務しました。

そして、現在の新疆ウイグル自治区で国際探偵で、三井洋行(現在の三井物産)に所属していたと記録ありますが、三井物産に所属した記録がありません、

しかし実態は日本陸軍の諜報機関に所属しソ連の赤軍が中国を経由して日本に攻めて来ないかの諜報活動を行っていました。

今回はその後、極東ウラジオストックで新聞社「萬朝報(よろずちょうほう)」の記者を名乗っていました。

しかしある日、スパイの疑いで連行されそうになりましたが逃亡し、日本人街の料理屋「松鶴樓(しょうかくろう)」に逃げたました。

女婦人は驚きましたが、隣の部屋に隠しました。

追手がお店に入って店内を捜索しましたが、女婦人は流暢なロシア語で「さっき逃げ込んだが、もう出ていった」と説明し、追手を追い返しました。

この女婦人は、鐘ヶ江エムで、後のさだまさしさんの祖母となる人で、これが叔父・繁治さんとのまるで映画のような出会いでした。

エムさんは、明治10年田原家に生まれ、明治27年17歳で嫁ぎ翌年妊娠し男の子を出産するも原因不明の湿疹が出た後、亡くなりました。

そのショックで嫁いた家を飛び出し、人生をやり直す為、ロシアウラジオストックに21歳で渡りました。

当時、長崎からウラジオストックへの出稼ぎが多かった為です。

家政婦をしながらロシア語を習得し、明治37年薬の業者・鐘ヶ江成正(しげまさ)氏と結婚しました。

しかし、15年後の大正7年、夫・成正さんが他界し、残したお金を元にしてペキンスカヤ通り(現在のフォーキナー通り)に「松鶴樓(しょうかくろう)」を開店しました。

シベリア出兵の好景に沸き、売上は月3500円、現在の貨幣価値で1000万円以上を稼いでいました。

現在もビルは現存し、現在はパスポートの発券事務所となっています。

開店から3ヶ月後の明治46年にエムさんが42歳で繁治さんと結婚。

そして翌年さだまさしの父・雅人さんが誕生しました。

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サハリンに渡る

大正11年12月、シベリア出兵が終わり日本軍撤退で日本人はウラジオストックからの退去命令が出ました。

佐田夫婦は、樺太(サハリン)を新天地としサハリンへ移住しました。

二人が拠点としたのは、泊居(トマリオル)サハリン州トマリで、王子製紙を中心とした日本人街がありました。

街の中心地で映画館なども有りました。

製紙の原料の木材を提供する会社を起こし、事業は順調でしたが、大正15年7月16日繁治さんは、53歳の若さで亡くなりました。

残されたエムさんは、王子製紙のボイラーのサビ取りの仕事で生計を立てる事になりました。

雅人さんは、尋常小学校に入学しました。

昭和9年、親戚の池田愛蔵からの誘いで、エムさんと雅人さんは、満州で暮す事になりました。

そして親戚が経営する猪口時計店の住居で暮す事になりました。

14歳になった雅人さんは中国語を身につける為、中国人の学校へ進学し、エムさんは親戚の子供の子守をして暮らしていました。

肝っ玉母さんとして子どもたちに親しまれていたそうです。

昭和16年3月、雅人さんは日本陸軍に入隊し、9ヶ月後に太平洋戦争が勃発しました。

中国語に堪能な雅人さんは、民間人の格好をして諜報活動を命じられました。

親子二代に渡り日本陸軍のスパイとして日本につくすことになったのでした。

元上官の古屋章一中尉によると雅人さんの諜報能力は素晴らしく、中国人による夜襲がいつあるかを掴み、実際に夜襲が起こりましが探知できていたので何を逃れる事が出来ました。

昭和20年、武漢で雅人さんは終戦を迎えました。

その後、中国国民党・蒋介石が中尉として迎えたいと申し出て来ました。

日本軍の撤退後、国民党軍、共産党、馬賊の間で内戦が勃発し、戦闘の経験豊かな日本人の指揮官が欲しかったのでした。

国民党軍に入れば母親が待つチチハルに行けるのでは?

と期待しましたが上官の岡本忠氏の誘いで日本に帰り長崎で母親が帰って来るのを待つ事になりました。

ソ連軍が満州を襲う

日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が満州チチハルに進行し猪口時計店に入り込み貴金属を略奪しまじめました。

エムさんはロシア語で「時計や貴金属はくれてやるから出て行け!」

とソ連兵に怒りをぶつけました。

その中のソ連兵が腕時計が動かないぞ!と怒鳴りましたが、それは腕に巻く方位磁石で、「これは磁石だ、動くわけない」と馬鹿にするとソ連兵は激怒しピストルを向けました。

しかしエムサンは怯まず「殺すなら殺せ!私は充分に生きた」と叫ぶとソ連兵は天井に2発ピストルの弾を打ち込みました。

エムさんはびくともせずソ連兵は「このばあさんにはかなわない」と言い残し立ち退きました。

長崎で再会

雅人さんは茂木港で母親エムサンが帰って来るのを来る日も来る日も待ちました。

そしてエムサンは当時10歳の「猪口時計店」の息子・猪口健一さんと一緒に帰って来ました。

この時、エムさんは70歳で雅人さんは27歳での再会でした。

材木商で財を成した

戦後焼け野原になった日本の再建の為、木材が必要になる事を考えた雅人さんは、材木商を営み経営は軌道に乗りました。

そして雅人さんに長崎への復員を誘った上官・岡本忠氏の妹・喜代子さんと縁談が持ち上がり結婚しました。

そして、雅人さんは喜代子さんと結婚し、昭和27年さだまさしさんが誕生しました。

喜代子さんは音楽教育に熱心でさだまさしさんが3歳の時からバイオリンを習わせました。

喜代子さんが音楽に熱心なのは喜代子の父親・岡本為吉さんの影響があるかもしれません。

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母親・喜代子の父親・岡本為吉

岡本家は喜代子さんの祖父・安太郎が長崎で船市の積み下ろしを担う港湾労働者「沖仲仕」を150~200人雇用する岡本組を営んていました。

安太郎氏は、「沖仲仕」の賃金の安定に死力した記録が残っています。

跡継ぎは、長男・為吉さんでしたが、芸術肌の性格で事業に気乗りせず、明治37年、京都を訪れた時「明暗寺」の前を通りかかった時、お寺からする音色に衝撃を受けました。

「明暗寺」は尺八の修行の場でそのまま尺八の修行を行い尺八奏者となりました。

その後、筑前琵琶奏者の荒川ヨネと出会い交際中に家業を継ぎました。

さだまさしさんの曽祖父安太郎氏は、72歳で他界しました。

そして為吉さんと荒川ヨネさんは、大正9年2月結婚し、「沖仲仕」は廃業。

そして後のさだまさしさんの母親となる大正15年喜代子さんが誕生しました。

為吉さんは、音楽道楽で安太郎氏が稼いだ財産は減る一方でした。

諫早大水害

昭和32年諫早大水害で材木商のさだまさしさんの実家の材木が全て流されてしまい負債をかかえました。

金策がうまくいず、母親の喜代子さんは保険の外交員で生活を支えました。

さだまさしさんは3歳からバイオリンを習い始めバイオリンは上達で才能を褒められますが、親戚からは音楽をやってる場合じゃ無いと批判を受けていました。

しかし、喜代子さんはさだまさしさんのバイオリンの授業に同行し、バイオリンの先生が指摘した問題点を常にチェックし書きとめていました。

昭和37年、さだまさしさんが10歳の時、叔母エムさんが85歳で他界しまた。

6歳の頃、さだまさしさんはバイオリンのコンテストで九州地区で2位となり長崎の希望の星と呼ばれていました。

昭和40年小学校卒業すると喜代子さんは、さだまさしさんを単身東京へ下宿させ、本人も度々上京し面倒をみていました。

しかし、昭和43年音楽学校の受験に失敗し、國學院高校に進学しました。

そこでバンドを始め、昭和46年大学でバイトをしながら作曲に励みましたが、2年目に体調を崩し中退し、長崎に戻りました。

無縁坂

実家に帰ると曲作りに励み名曲「無縁坂」が完成しました。

母・喜代子さんの前でギターを弾きながら涙がポロポロと流れました。

そして、その後友人と「グレープ」を結成し長崎のTV番組に出演すると反響がありデビューが決まり、2枚目のシングル「精霊流し」が50万枚を超える大ヒットしました。

その後の活躍はご存知の通りです。

映画「長江」で借金300億円

父親・雅人さんの構想で映画「長江」で借金300億円をかかえ年間100本を超えるライブを精力的に行い、30年がかりで返済を完了しました。

両親との別れ

平成21年12月89歳で雅人さんは、他界しました。
そして平成28年4月、喜代子さんは90歳で他界しました。

まとめ 再放送・見逃し動画配信

デヴィ夫人のファミリーヒストリーは以下をご覧下さい。

これまでさだまさしさんの祖父がスパイだった事は有名でしたが、好む好まずに関わらず父親もスパイを2代引き継ぐ運命だった。

そして、さだまさしさんの音楽は母親の父・為吉さんから母親喜代子さんからさだまさしさん、妹の佐田玲子へとバトンが渡されていた事がわかりました。

祖父の繁治さんとエムさんの出会いがまるでスパイ映画の様だった事など、まるで映画を観ているか小説を読んでいるかの様で引き込まれました。
再放送は未定ですが、見逃し動画配信はNHKオンデマンドで視聴が可能です。

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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