藤田信雄中尉 アメリカ本土を唯一爆撃(空爆)した日本人が米大統領から星条旗を贈られた奇跡[アンビリバボー 8月9日]
悲惨な太平洋戦争が終結し73年が経ち戦争経験者が少なくなり戦争が風化しつつあります。
そこで、今回は「アメリカ本土を爆撃した男 大統領から星条旗を贈られた藤田信雄中尉の数奇なる運命」という書籍を紹介します。
この書籍を元に、フジテレビ系列「奇跡体験!アンビリバボー(2018年8月9日放送)」では、仰天!アメリカ本土を空爆!世界で唯一の日本人と題し、太平洋戦争中、史上唯一アメリカ本土を焼夷弾で爆撃した日本海軍のパイロット藤田信雄元特務中尉が戦後嘗ての敵国アメリカの大統領からホワイトハウスに飾られていた星条旗を贈られた奇跡が紹介されます。
アメリカ本土を唯一爆撃した「アメリカ本土を単機で爆撃せよ」という作戦は、日本軍部内でも極秘とされており、戦後も語られる事も無かった為、藤田信雄さんの過去は家族すらも知らされていませんでした。
藤田信雄飛曹長・奥田兵曹ペアによる米本土初空襲(ルックアウト空襲)
1942年(昭和17年)9月7日、藤田信雄飛曹長(当時)が操縦、奥田兵曹が偵察員をコンビを務める零式小型水上偵察機(E14Y)が76キロの焼夷弾を左右の翼の下に一個つづ吊り下げて母艦の伊号第二十五潜水艦(伊25・イ25)からカタパルト射出され発艦しました。
目標は、アメリカ西海岸、オレゴン州の森林で焼夷弾により大火災を起こさせアメリカ人にパニックを起こささる事が目的でした。
藤田信雄飛曹長の操縦する零式小型水偵による空襲は敵の迎撃を受ける事もなく成功しましたが、前日の大雨で森林は湿気っており大火災は起こらず直ぐに沈下され作戦は成功とは言えませんでした。
この空襲は米軍からはルックアウト空襲(Lookout Air Raids)と呼ばれました。
母艦に帰還すると田上艦長からは「一本木を折っただけ」と揶揄され叱咤されましたが、実際にはアメリカ国内では、報道管制が敷かれており、火災が日本軍による爆撃と言うことは極秘扱いされていました。
しかしマスコミが嗅ぎつけ、オレゴン爆撃はニューヨークタイムス紙にも掲載されており、あながち失敗とも言えませんでした。
9月29日に2回目のオレゴン爆撃が行われましたが成果は現在も不明です。
このオレゴン爆撃(空爆)を報じたニューヨークタイムス紙が1997年、再びこのエピソードを掲載する日がおとずれました。
その記事には
と記されていました。
※アメリカ本土爆撃(空爆)の詳細に関しては別ページに投稿しました。
政府からの渡米命令
藤田元特務少尉は、恩給が多く貰えるような図らいで1階級進級する所謂ポツダム進級により特務中尉として終戦を迎えました。
そして茨城県土浦市に復員後、金物の行商から起こした藤田金属を営んでいました。
民間化が盛んになった航空会社や発足したばかりの自衛隊からの誘いがありましたが「もう飛行機には乗りたくない」と断っていました。
そんな中、1962年(昭和37年)5月20日、政府首脳より都内の料亭に呼び出されました。
そこに現れたのは、時の首相・池田勇人と大平正芳内閣官房長官でした。
大平正芳内閣官房長官からは、アメリカ政府が戦時中オレゴンの山林を空襲した藤田信雄氏を探していることを告げられ、アメリカ行きを命ぜられました。
そして、日米関係への影響に鑑みた日本政府は、この渡米に関して一切関知しないと念を押されました。
アメリカ本土を空襲した件で戦犯に問われ裁かれるのでは?
と考えましたが、大平正芳内閣官房長官によると、かつて藤田信雄氏が空襲した森林近くのオレゴン州ブルッキングスで行われる最大の5月に行われるフェスティバル「アゼリア祭り」に「日米親善の為のゲスト」として家族と一緒に招待したいとの事で、ルッキングス市長の署名付の招待状が渡されたのでした。
それでも信じられない藤田信雄氏は、もしもの時の自決用にと、400年間自宅に代々伝わる日本刀をトランクしのばせ渡米しました。
英雄扱い
藤田信雄氏はルッキングスに到着すると自分を恥じました。
それは「たったひとりで強大なアメリカに対し爆撃を成功させた勇敢な元兵士」として英雄扱いされ賞賛を浴び、フェスティバルの主賓として招待されたのを知ったからです。
歓迎パーティーで藤田信雄氏は、おのれの不明を恥じ自決用に持参した刀を、「これは私の魂です。貴市に寄贈致します」と語り友情の印としてブルッキングズ市に寄贈しました。
それだけでなくフィリピンで日本軍の捕虜となり、北九州で強制労働を課せられた元アメリカ軍兵士ローガン・ケイ元陸軍少尉が歩み寄り
「過去を忘れてお互いの祖国の繁栄と、引いては人類の幸福という大きな目的に向けて努力しましょう」
と語りかけ、二人は堅い握手を交わしました。
ブルッキングス市への恩返し
その後、藤田信雄氏は、息子に社長の座を譲りましたが、経営が悪化し、会社は倒産してしまいました。
68歳にして、藤田は海軍航空隊の教官時代の教え子の会社(電気部品工場)に運転手として再就職した後、質素な生活を送り月3万円の貯金を始めました。
仕事では着実に昇進し、工場長、さらに取締役まで昇り詰め、亡くなる82歳まで現役で働き続けました。
高齢になっても働き続けた理由は、オレゴン爆撃に対するブルッキングス市民への恩返しの想いが有りました。
前途の月3万円の貯蓄は、ブルッキングス市への恩返しとして、1985年開催のつくば科学万博にブルッキングス市の高校生3人とブルッキングス市初訪問時に知り合ったマイク・ミード君を1週間の日本の旅に招待する為の資金だったのです。
レーガン米大統領からの贈り物
ブルッキングス市の高校生の歓迎会の席でサプライズが用意されていました。
その送り主は、当時の大統領、ロナルド・レーガン米大統領で、ホワイトハウスに掲揚された星条旗が藤田氏に贈られたのでした。
そしてレーガン大統領の写真が記載された感謝状には
「貴殿の惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。
さらに私は、貴殿の立派で、また勇敢な行為を称え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります」
とのメッセージが記載されていました。
更に日本に招待した女子高校生の一人が大学で日本語を専攻していることを知り日本とアメリカの友情の橋渡しとなった事を喜びました。
その後も藤田信雄氏は、1990年(平成2年)、1992年(平成4年)、1995年(平成7年)と3度ブルッキングスを訪問しています。
中でも1992年の訪問時には、かつて焼夷弾を投下した山にレッドウッドの苗木を植樹しました。
そしてブルッキングス市に「若い人たちに本を」とのメッセージを添えて1000ドルを寄付しました。
ブルッキングス市はこの1000ドルを基金にして、全米に経緯を発信し寄付を募りブルッキングズ市に図書館を建設しました。
そして、1995年訪問時には、ブルッキングズ市の図書館に「藤田コーナー」設けられ、寄贈した日本刀が飾られていました。
それだけでなく、既に84歳という高齢でありがなら自らセスナの操縦桿を握り、ブルッキングズ市長ら友人3人を乗せ操縦し、かつての愛機・零式小型水上偵察機で空襲した経路を辿ってみせたのでした。
ブルッキングス市の名誉市民に選ばれる
1997年9月に藤田信雄氏は、ブルッキングス市の名誉市民と認定されましたが、その報を聞く3日前に天寿を全うしたのでした。
藤田信雄氏の遺灰の一部は、翌年10月に実娘の彼の娘である浅倉順子(よりこ)さんにより埋められ、「アメリカ大陸が唯一日本機に爆撃された地点」と書かれた看板が立てられています。
そして、ブルッキングスでは、彼がアゼリア祭りに訪れた5月25日を「フジタデー(藤田信雄デー)」として祝されているそうです。
まとめ
今回は藤田信雄氏の操縦する偵察機によるアメリカ本土爆撃が紹介されますが、藤田信雄氏が母艦として乗艦した伊号第二十五潜水艦は、アメリカ本土のアストリア市を主砲で砲撃(アストリア砲撃)もしています。
詳しくは元乗組員が綴った書籍「伊25号出撃す」をご覧ください。
勿論、田信雄氏の操縦する偵察機によるアメリカ本土爆撃のエピソードも記述されています。
また零式小型水上偵察機のプラモデルもどうぞ!
本日は最後までご覧いただきありがとうございました。
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