ファミリーヒストリー デヴィ夫人再放送は?祖先は茨城県根本城の城主で関ヶ原の戦いが運命を変えた? 9月17日見逃し動画配信

9月 20, 2018

芸能人・著名人のルーツを探るNHKの「ファミリーヒストリー(2018年9月17日放送)」では、「デヴィ夫人~運命の関ヶ原 クーデターでの決断~」と題し、デヴィ夫人(本名:根本七保子・ねもと なおこ)のルーツを探りました。

その結果判明したのが、父方の祖先である曽祖父・兵吉が茨城県の有力な武士・根本氏で根本城を拠点にしていましたが、関ヶ原の戦いの後、運命が代わり漁師になった事が判明しました。

その後、父親の兵三郎さんは、大工となり関東大震災、太平洋戦争など幾多の災難に遭遇しながら、結婚し、戦時中に後のデヴィ夫人となる七保子さんを授かりました。

七保子さんはその美貌から各国の富豪から求婚され、インドネシアのスカルノ大統領夫人となるもクーデターなど壮絶な歴史を辿ります。

再放送日は9月20日(深夜1:05)ですが、その前に出来るだけ詳しく内容をシェアしますね。

デヴィ夫人の家系図

番組で判明した家系図を簡単にまとめてみました。

【父方・根本家】曽祖父・兵吉—祖父・兵三郎–父・兵七–七保子(デヴィ夫人)–弟・八曾男(やそお)
【母方・笠原家】祖父–房治–母・まさ–七保子(デヴィ夫人)–弟・八曾男(やそお)

※両親ともに再婚しているので実際にはデヴィ夫人には腹違いの兄弟姉妹も居ます。

父方・根本家のルーツ

根本家の家系図は以下の通りです。

曽祖父・兵吉—祖父・兵三郎–父・兵七–七保子(デヴィ夫人)

ファミリーヒストリーでは、デヴィ夫人の本名の姓が「根本」である事と祖先が茨城県出身で漁師だったという事からルーツを探りました。

父・兵七さんの戸籍を元に現在の茨城県ひたちなか市平磯町調査が始まりました。

茨城県平磯町では、根本家は150軒ほど有り、先祖が同じと考られています。

嘗て戦国時代に常陸の国を収めていた佐竹義宣氏でした。

残された文書によると、根本家は室町時代から佐竹家に仕えていた有力な武士であったと記録が有ります。

根本氏の領地は現在の平磯から北へ25キロの常陸国久慈郡根本(常陸太田市)でした。 

根本城の城跡は現在、平地となっており、隣接していた伏見稲荷神社には根本鎮座の石碑が現在も残っています。

つまりこの石碑が、根本氏がこの一体を収めていた証拠となっています。

関ヶ原の戦い1600年(慶長5年)で状況が一変しました。

佐竹家は東軍、西軍のどちらにもつかない中立の立場を選びました。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の怒りを買い「出羽の国(現在の秋田県)」に国替えを命ぜられ、石高も54万石から20万石に減らされました。

その結果、江戸時代にあると多くの家臣たちは、武士を辞めなくてはならなくなりました。

根本一族は平磯に移り漁師となりました。

祖先は城主であったのか?

番組内でMCの今田耕司さんが茨城県の城の城主と語っていましたが、城主であったか?

は不明です。

漁師を辞め海産物店を開く

明治43年(1910年)転機が訪れ嵐による海難事故が起こり、祖父・兵三郎は命からがら生還しました。

これをキッカケに漁師を辞め、海産物店を始めました。

その次男として生まれたのが、父・兵七さんでした。

尋常小学校を卒業すると、家業は継がず、船大工となりました。

シケなどで破損したり沈没したりする船が多かった為、需要が多いとの判断があったからでした。

船大工であった事がその後の人生を変える事となりました。

兵七さんは、大正10年(1921年)30歳で地元のはるさんと結婚しました。

しかし、2年後関東大震災が起こり平磯も被害を受け、漁師を廃業する人が増え船大工の仕事は苦しくなりました。

生活の為、東京に拠点を移し、陸軍歩兵第三連隊の兵舎の再建に大工として雇われました、

そして上京から5年後の
昭和7年(1932年)西麻布に2階建てに居を設け、その2階を賃貸物件として貸出し家賃収入を得る様になりました。

この2階の物件は人気が有り、空き室になると直ぐに次の店子が付くようになりました。

そして運命の人が借りる事となりました。

千葉県出身の笠原まささんで実家の柿の木から落ち右足が不自由な為、不審に思われ中々家を借りられない女性でしたが、不憫に思った兵七さんは迷わず貸出ました。

この女性は後にデヴィ夫人の母親となります。

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笠原家のルーツ

デヴィ夫人の母親の笠原家のルーツは現在も1万坪以上の土地を持つ千葉県睦沢町の大地主で祖父・房治さんは村議会議員を勤めていました。

祖父–房治–母・まさ–七保子(デヴィ夫人)

19歳で女の子を出産するも亡くし離婚、その後再婚し男の子をもうけますが2ヶ月で亡くしてしまいました。

まささんは、裁縫の仕事で生計をたてました。

その後、40歳で仕事を求め東京の麻布でチャイナドレスの縫製の仕事に就きます。

職場近くで家を探しますが、なにか事情があると思われ続けました。

まささんが家を借りるようになって半年後11年(1936年)兵七さんの妻はるさんは、

・正次
・良子
・和夫
・照子
・治夫

の五人の子供達を残し亡くなりました。

それから根本家の家事や育児を任される様になりました。

両親の結婚

3年後親戚のすすめで、兵七さんとまささんは、昭和15年(1940年)共に45歳で結婚しました。

そして間もなく女の子、後のデヴィ夫人が誕生し、根本家で七番目の子供という事から七保子と名付けられました。

翌年の昭和16年(1941年)8番目の子供でデヴィ夫人弟の八曾男(やそお)さんが誕生しました。

太平洋戦争勃発

まさは不自由な足で千葉の農家である実家に通い、米など食料を

昭和19年(1944年)陸軍歩兵第三連隊があった麻布周辺は連日爆空襲(空爆)を受けていました。

まささんは不自由な足を引きずり青山墓地の防空壕に連日連れ逃げ込みました。

暫くし親戚のいる福島県浪江町に七保子、八曾男を連れ疎開しました。

しかし安全と思われていた浪江町が、昭和20年(1944年)8月9日に米軍の艦載機が郡山を空襲した後、空母に帰還する途中に、ロケット弾で空爆を始めました。

必死の思い出防空壕に辿り着きましたが、防空壕が一杯で、3人は入れないとの事で、子供だけでもと土下座してお願いしなんとか子供二人は防空壕に入る事が出来ました。

幸いまささんも無事で、1週間後の8月15日に終戦を迎え暫くして東京に戻りました。

父親の失業

麻布の借家は奇跡的に空襲を免れていました。

父親の兵七さんは大工である為復興で仕事が忙しくなるハズでした。

しかし、地元の消防団の飲み会で「ばくだん」と呼ばれたメチルアルコールが残った酒を飲んでしまい視力が悪化し大工の仕事が出来なくなってしまいました。

母親のまささんは、マッチのラベル貼りなどの内職で生活を支えていました。

小学校では貧しくも人気者

七保子さんは、小学校に入学しますが月謝を払えず近所からお金を借りている事を知りました。

そこで、負担を減らすため、修学旅行や林間学校の行事には参加せず、靴下も左右でちぐはぐの物を履いたりしていませんでしが気にせず明るく振る舞っていました。

七保子さんは人気者で小学生の頃は絵が好きで美のセンスはその頃から突出していたと同級生が語りました。

就職

その後、定時制高校に進学し、家計を支える為と、弟を大学まで通わせる為、京橋の千代田生命保険に就職し事務員として働き、昼休みや休日は喫茶店でバイトなどでお金を稼ぎ母親の負担を減らしました。

さらに芸能事務所に所属しエキストラとしてテレビの出演もこなしていました。

父親との別れ

1955年(昭和30年)59歳で父が世を去りました。

ホステスとしてナンバーワンに

やがて銀座のホステスとなり10倍の給料

17歳でコパカバーナで働き始めました。

その美貌とふるまいから100人以上のホステスでナンバーワンに上り詰めました。

その美しさから同僚も七保子さんに憧れるホステスが増え、整形外科で七保子さんの様な顔にして欲しいとリクエストする手術が増えた逸話が有ります。

向上心の強い七保子さんは、顧客に外国人が多かった為、独学で英語を身に着けました。

また社交ダンスも身に着けました。

やがて弟の八曾男さんは、早稲田大学に入学し自転車部で活躍しました。

その活動の中で二人乗り自転車の競技タンデムの全国2位になりました。

スカルノ大統領との出会い

帝国ホテルのロビーで後の主人となるインドネシアのスカルノ大統領と出会いました。

インドネシアと取引していた商社マンの手引きで昭和34年、19歳でインドネシアに渡る事となりました。

その頃、二人の大富豪から求婚されていたそうです。

悲劇

しかしショッキングな事が日本で起こりました。

インドネシアに渡って3年後の1962年(昭和37)年、母親まささんが65歳の時脳出血でこの世を去り、その2日後、弟の八曾男は、20歳で自ら命を絶ちました。

その理由は、母親の後を追ったとも大学での人間関係が原因とも云われており分かっていないそうです。

大統領夫人となる

1962年(昭和37年7月)22歳で第3夫人として迎えられました。

宮殿を与えられ、1万6000坪、38人の使用人に囲まれて生活が始まりました。

そして宮殿の名前は弟の名前を冠し、「ヤソオ宮殿」と名付けました。

現在は、軍事博物館になっています。

この宮殿ではファーストレディとして外国からの要人をもてなす役割も果たしました。

クーデター

1965年9月30日、9月30日事件と呼ばれる反乱が起こりデヴィ夫人は安全を守る為宮殿に幽閉されました。

このクーデターは、スハルト将軍が鎮圧しましたが後にスカルノ大統領支持者をスハルト将軍殺戮を始めました。

その犠牲者は、100万とも300万人とも云われています。

そしてスハルト将軍は、軍部を掌握し、市民からの支持を受けました。

この9月30日事件は、
・スカルノの排除を狙うスハルトが仕掛けたカウンター・クーデター
・スカルノの左傾化と中華人民共和国への急接近を警戒したアメリカ合衆国の中央情報局が背後にいた
・インドネシア共産党と親密であった中国共産党が関与していた
などの陰謀説が有りますが原因は不明のままです。

スカルノ大統領反対勢力は大きくなり、デヴィ夫人は日本に帰れなどデモで罵倒される程になっていました。

軟禁状態は半年続き、打開しようとデヴィ夫人は奇策に出ます。

ジャカルタのゴルフ場にスハルト将軍を招待し、スカルノ大統領を支えて欲しいと嘆願しました。

しかし、スハルト将軍は、耳を貸さず幽閉は続きましたた。

この頃デヴィ夫人はスカルノ大統領との間に出来た赤ちゃんを身ごもっていました。

安全な出産が確保出来ない為、インドネシアから日本に帰国し、1967年長女のカリナさんを出産しました。

そして半年後フランスに亡命しました。

1970年(昭和45年)スカルノ氏が危篤となりました。

この頃既にデヴィ夫人は、インドネシアへの入国禁止処置がされていましたがジャカルタの空港に強引に降り立ちました。

そこには第一夫人の娘が送迎に向かいスカルノ大統領と対面。

その翌日スカルノ大統領は、69歳で、この世を去りました。

その後、平成16年日本に拠点を移し芸能界のバラエティ番組での活躍は、皆さんのご承知の通りです。

再放送

未定ですが、NHKオンデマンドで見逃し動画配信されています。

まとめ

以前放送された、さだまさしさんのファミリーヒストリーは以下をご覧下さい。

家系図を簡単にまとめてみました。

【父方・根本家】曽祖父(武士で根本城城主?)・兵吉—祖父・兵三郎–父・兵七–七保子(デヴィ夫人)
【母方・笠原家】祖父(大地主)–房治–母・まさ–七保子(デヴィ夫人)

大統領夫人だったというデヴィ夫人の人生そのものが壮絶なストーリーなのですが、そのルーツも城の主だったという展開で、子供の頃はお姫様の絵を描いていたなど、時代は違えど国の主の

それから初めてデヴィ夫人をテレビで観た時は、この人、日本語上手だなって生い立ちを知るまでの間ずっと思っていました(笑)

日本人離れした美しさですからまさか日本人だったとはその頃思っていませんでしたから(笑)

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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